大槻能楽堂 OHTSUKI NOH THEATRE

  • 能の歴史

    History of Noh

芸能の根源は祈り
「能」の根源も祈りでした

710年頃(奈良時代)に中国から渡ってきた芸能のひとつに「散楽(さんがく)」があります。いわゆる曲芸やマジックなどのバラエティに富んだ大道芸です。日本でも延年(えいねん)、風流(ふりゅう)、朗詠(ろうえい)、白拍子など、祈りから発展した芸能が雑然と盛んに行われていましたが、まだ寸劇程度のものでした。観阿弥がそれらを鑑賞し得る劇に仕上げたのが「能」の始まりです。

観阿弥のあとを引き継いだ息子の世阿弥は数々の名曲を創り、演劇論も数多く書き残しました。そして、能独特の作劇法である「夢幻能(むげんのう)」を確立し、現在まで伝わる、世界に誇る日本の舞台芸術「能」を完成させました。

「観阿弥・世阿弥」が
作りあげた独創的な
世界観

1374年(室町時代)、室町将軍三代・足利義満が観阿弥・世阿弥の猿楽能(さるがくのう)を鑑賞して大変感銘を受け、以後この親子に絶大な庇護を与えるようになりました。こうして、能が将軍や公家の上流階級の人々に享受され、演目内容も物語や和歌の世界へと広がり、さまざまな創意に満ちた能が次々に作られました。
その後、応仁の乱が起こり幕府は衰弱し、不安定な世情となって能も大きな打撃を受けました。しかし、有能な後継者たちが輩出され、時代に合った芸術性の高い曲を創作し続けます。こうして能はさらに真価を高めていきました。

戦国武将に愛された能

貴族から武士に権力が移行した1573年(安土桃山時代)以降、能は武士の教養のひとつとして盛んに演じられるようになりました。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は大の能好きで、自ら能を舞い、自らを主役とした新作能を作らせて演じました。豪華絢爛を好んだこの時代には、能舞台の様式が確立され、装束も豪奢になりました。
1603年(江戸時代)になると、徳川家康によって能は幕府の公式行事で催される「式楽(宮廷音楽)」となりました。武士たちが能を愛好する一方で、庶民は特別な行事のとき以外は能を観ることができなくなりました。

  • 錦絵『町入能図』1889年[明治22年]刊(法政大学能楽研究所所蔵)